出逢いから2006-2007ブログの旅へ
そして今も道の途中♪
省吾さんと一緒のこの一年も、毎日が楽しみ
だね!
2012/5/20
町支寛二君に初めて会ったのはオレが16歳、高二の時だから1969年のこと。
その時は知らなかったけど、今になって思えば、
その年の夏にウッドストック・ミュージック・フェスティバルがあったいうことになる。
広島県呉市、町の小さな教会で「若者の集い」みたいな催しがあって、
信者ではなかったけど、演奏出来るならどこだって…って感じで出させてもらった。
その高校のバンド仲間の友人で、会場に遊びに来てくれたのが町支君だった。
ライブの後、バンド仲間の福田君に「こいつ、町支」と紹介された時、
彼はフラットピッキング奏法でアコースティック・ギターを弾いていた。
心の中で「スゴク・ジョウズデ・ビックリ!」という出会いだった。
同じ年の秋、
広島市の青少年文化センターで行われた「広島フォーク村」主催のコンサートで、
彼がやっていたバンド、そのバンドには後に“AIDO”で一緒になる山崎(劉哲志)君や
現Road&Sky社長の高橋君がいたのだが、“グルックス”の演奏を聴いた。
数曲の洋楽のコピーだったが、どの演奏も素晴らしかった。
特に“ライチャス・ブラザース”の「ひき潮」を歌う
町支君のボーカルと山崎君のハーモニーに感動したのを今でも覚えている。
暫くして、オレ達は友達になり、
オレが歌詞を書き、町支君がその詞にメロディーをつけるというところから、
彼とオレの音楽の旅が始まった。
そして、ご存知のように…信じられないことだが…ひと足早く、彼が60歳を迎えた。
5月5日の彼の誕生日の後に延期になっていた宮城公演を設定したのは、
ひょっとして、ステージ・プロデューサーの岩熊さんの陰謀か?…ahaha.
新しくバンドに参加してくれたピアノの河内肇君が38歳だから、
何とこのバンドには30、40、50、60代のミュージシャンが揃っていて、
客席と正比例した年齢構成になっている。
自然に、そして、何だか五月の風のように気持ち良く、
これからも音楽の旅は良き音楽仲間達と
素晴らしい観客に支えられて続けていけるんだな……そんな気分を感じている宮城公演だ。
浜田省吾
2012/5/19
去年の春、このツアーが始まる前、制作スタッフから
「コンサートの当日に“今日のひと言”っていうのをツアーサイトにアップしたいので、
何でもいいですから書いてもらえますか」と頼まれた。
「ハイ、わかりました」と引き受けたものの、
実はオレ、かなりの筆不精者。
ましてや、10ヶ月間も延期されていた東北・宮城公演の初日。
ミュージシャンにも、ツアークルーにも、制作スタッフにも、
会場に来て下さる観客の方にも色んな想いがあり、
そこには沢山のひとりひとりの物語があるはず。
そんな特別な今日という日のひと言……一体何を書けばいいのだろう。
夏、秋、冬、春を越えて、やっとこの日が来ました…
今年こそ日本シリーズはカープとゴールデンイーグルスで…
…うーん、例えば、こんな歌があったとしよう、
この歌の中の主人公のカップルがコンサート会場で音楽を楽しんでいる、
そんなイメージを思い浮かべながらステージに立っているオレ…
キスしよう、そして、ソファーの上で軽やかな感じで愛を交感したら、
ベランダに出て、並んでスイカを食べよう。
どっちが遠くまで種を飛ばせるか競争だ。
それから、パスタを茹でて、冷蔵庫の中の野菜をかき集めて、
オリーブオイルと唐辛子とガーリックで炒めて、皿に盛って、
オレはビール、君は冷えた白ワインかな?…で乾杯。
とりあえず、
鍋もフライパンも皿もグラスも流しに入れたままでいいからさ、
今すぐ外に出ようよ。
そして、太陽の下を歩くんだ。
オレ達、支え合って、いたわり合って、太陽の下を歩いていこう。
浜田省吾
2011/10/30
4月16日土曜日、ツアー初日の「静岡エコパアリーナ」から数えて
33回目のショーを前に、あらためて、制作スタッフ、ミュージシャン、
ツアークルー、各地の放送局、新聞社、主催者ならびにイベンター各社、
音楽ジャーナリスト、J.S.Foundation、S.M.E.レコード、ロード&スカイ、
そして、誰よりもコンサートに来て下さった観客ひとりひとりの方々に感謝します。
多くの人達のサポートに支えられ“On The Road 2011 / The Last Weekend”は
今日「さいたまスーパーアリーナ」にてファイナルを迎えることが出来ました。
このツアーはステージの回数を重ねる度に力強く深くなっていった気がします。
それはもちろんミュージシャンやスタッフのおかげでもあるのですが、
客席の意識の高さや情熱によって成されたものであると感じています。
ステージ上の“ハマダショウゴ”という固有名詞を持つシンガーは
このコンサートに関わる制作スタッフやツアークルー、
そしてオーディエンスが盛り上げ、創り上げてくれた存在であって、
生身の自分自身とは少しかけ離れていると感じながらも、
自分に与えられた機会を活かし、温かい時間と空間を作るべく努力しました。
ありがとうございました。
再会の時を心から楽しみにしています。
お元気で。
浜田省吾
追伸
このツアーサイトに寄せられた応援メッセージのひとつひとつに感謝しています。
ステージに立つにあたり、励みになりました。
そして、ステージの後、報われた気持ちを与えられました。
ありがとうございました。
2011/10/29
夏の日焼けのあとがまだ体に残っているのに、
待ち焦がれた秋をもう少し楽しみたいのに、
街はもうクリスマス・イルミネーションの飾りつけを始めている。
去年の今頃はコンサート・ツアーの準備をしていた。
6年ぶりのアリーナ・ツアー、前のホール・ツアーが終わって4年、
自分の声や体がどう変化したのか、
会場の雰囲気がどのようなものになるのか、
久しぶりのツアーだが、果たして観客は会場に足を運んでくれるだろうか、
そんなことを考えていたような気がする。
そして、何故かこのツアーがとても重いものになるのではないか、
という漠然とした予感にとらわれていた。
しかし、まさかこのような状況の中でのツアーになるとは…。
社会的日常においては、時間が前に進まず、
昨日と同じ日を今日も繰り返しているような感覚の中で暮らしてきた。
それでも季節は深まる秋のむこうに再び冬を迎えようとしている。
ここまでの全てのコンサートにおいて、
感情的にならぬよう演奏に集中し、精一杯のショーをやってきた。
そして、今日と明日「さいたまスーパーアリーナ」にてツアーはファイナルを迎える。
桜の花びらが舞っていた春の日の「静岡エコパアリーナ」と変わらず、
その後の全ての会場と変わらず、
ベストを尽くしてステージに臨みたいと思う。
浜田省吾
2011/10/15
80年代、まだかなり若かった頃、
そう、オレだっていきなり58歳になったわけでは無い…、
「日が昇る前にホテルに戻るようじゃロッカーとは言え ないよ、
今日と明日の区切りはしっかりつけなきゃ!」と随分トバシていたが、
今そんなことをやっていたらコンサートをトバシてしまう。
以前にも書いたが、今回、ツアー中の食事は楽屋に用意してもらうか、
ルームサービスで済ますことにしている。
この街の、この場所にいるのは、郷土料理を食べるためでも、
美味しい地酒やシャンパンやワインを飲むためでも、
綺麗なお姉さんにお酒を注いでもらうためでも無いのだ…ahaha。
ところで、先日の大阪公演の後、ミュージシャンのブ ログを読むと、
初日の夜の食事は何と、寿司、焼肉、鍋という3時間3本勝負だったらしい。
少しは自分達の年齢を考えなさい!と言いたかったが、
それよりも、それだけ食べられる体力があることに驚 き、感心した。
今夜、センターステージの上でキーボード奏者の福田くんとその話題になり、
まぁ、ステージ上でそんな話をしているオレ達も可笑しいが、
「浜田さん、オレ達が三軒はしごしたと思ってるで しょ?
一軒の店で食べたんですよ…」と福田君、
「何だ、そうっだったの」と納得のオレ。
でも、ホテルに戻って思った。
寿司が出て、その後に焼き肉を食べて、最後に松茸が入った鍋が出てくる店って、
一体どんな店なんだろう?
On The Road 2011がス タートして7公演目、
春の福岡マリンメッセでのステージ後、
ビュッフェ・パーティースタイルではあったが
初めてツアーに参加してくれたミュージシャン全員と食事を共にした。
あれは5月8日の日曜日の夜だった。
あれからもう5ヶ月が経ち、今月末には埼玉S.A.でファイナルを迎える。
全てのミュージシャンひとりひとりともっと身近に話したり、
食事をする機会を持ちたかったが、叶わなかった。
しかし、ステージの上で音楽を通じて触れ合うことが出来たと感じている。
さて、今頃ミュージシャンやスタッフ達はどこにいるんだろう?中州、天神、長浜…?
辛子明太子、水炊き、ふぐ鍋、ちゃんこ鍋、博多ラーメ ン、餃子、屋台の煮込み…?
福岡、博多の夜は更けてゆく。
浜田省吾
2011/10/14
MLB−Major League Baseballファンなら誰でも知っていると思うが、
1920年に経営困難を理由に、
ボストン・レッドソックスはホームラン王だったベーブルースを
ニューヨーク・ヤンキースにトレードしてしまった。
それをきっかけに、その後ヤンキースは弱小球団から最強球団になり、
野球界の盟主になってゆくのだが、それに反比例するように、
人気球団レッドソックスはその後86年間も優勝から遠ざかってしまう。
これを世の人は「バンビーノの呪い」と呼んだ。
バンビーノとはベーブルースのニックネームだ。
ところで、ヤンキースは去年・今年と2年続けて、
リーグ優勝を決める地区予選であっさり敗退している。
絶好の得点チャンスに主軸打者が打てないのだ。
2年前の2009年、松井秀喜選手はDHとしてフル出場し、
3本塁打、試合を決定づける8打点を挙げて、
ヤンキースがワールドシリーズ優勝、彼はMVP選手に選ばれた。
それは新しいヤンキース・スタジアムになって最初の記念すべき年で、
ニューヨークのファン達は熱狂的に喜んだ。
しかし翌年、ヤンキースは松井選手をLA・エンジェルスにトレードしてしまった。
今、ヤンキースは高い代償を払ってると思わないか。
日本ハムファイターズが東京から札幌に本拠地を移転すると決めた2002年、
新しいチーム名を公募するというので、
北海道をツアー中、ステージの上から観客に、
「北海道・札幌ベアーズ」という名前をオレの代わりに応募して欲しいと頼んだ。
ポップ感溢れるいい名前だと自画自賛。
プロ野球チームの名付け親になれるかも…と密かに期待していた。
…が、しかし、二年後の2004年、
「日本ハムファイターズ」は「北海道日本ハムファイターズ」としてスタートした。
ところで先日、札幌市内に熊が出没しているというTVニュースを観た。
もし、「札幌ベアーズ」というチーム名になっていたら大ヒットだったか、
もしくは、大ヒンシュクを買ったか…おそらく、後者だっただろう。
日本の野球チームにはオーナー会社の名前が必ず付いている。
巨費を投じた企業の宣伝材料のひとつであるから仕方無いのかもしれないが、
せめて神聖なヘルメットくらいにはスポンサー名を入れないで欲しい…と願う。
「シアトル・マリナーズ」が「シアトル・○△×◎☆○マリナーズ」で、
イチロー選手のヘルメットに「×○△◎」とか書いてあったらガッカリだ。
さて、10月はThe Month of Baseball−野球の月、話は続く。
そもそもC.S.−クライマックスシリーズは
早々とリーグ優勝チームが決まってしまった後の
消化試合の空しさと興行的な事情から考え出されたもの。
それでも、選手やチームは優勝のチャンスが1%でも残されているなら、
最後まであきらめず必死で闘うはずだし、
シーズン最後までファンも楽しんで応援するだろう。
C.S.はペナントレースを最後まで盛り上げて、そこでしっかり使命を果たす。
しかし、C.S.自体が盛り上がる必要があるのか。
盛り上がるべきは、シーズン最後の最後、日本シリーズのはず。
両リーグの優勝チームが闘い、
その年のチャンピオンチームを決める、本来そうあるべき。
リーグ2位か3位のチームが短期決戦で勝ち上がり、
日本シリーズに出て、チャンピオンになったけど、
リーグ優勝チームは他にいて、
長いペナントレースって一体なんだったの?…と首を傾げるファン。
そこでどうだろう、クライマックスシリーズは7試合制と考え、
リーグ優勝チームに3勝のアドバンテージを与えるということにしては。
ファーストステージを勝ち上がってきたチームは
セカンドステージでは4戦全勝しなければ、
日本シリーズ出場の権利を得ることが出来ない。
それでも勝ち上がったなら、それこそ奇跡の逆転劇、認めようじゃないか。
福岡のホークスファンの皆さん、
とりあえず…この「とりあえず」という言葉が意味深い、
ホークスの圧倒的なパ・リーグ制覇、完全優勝おめでとうございます。
ところで、カープファンのオレにこんなややこしい事を考えさせるのは
ホークスのBaseball CapがSHだから?
浜田省吾
2011/10/9
楽しいこと、嬉しいこと、幸せな気持ちは分かち合うことが出来る。
一緒に笑ったり、ふざけたり、はしゃいだり、愉快な時間を共に過ごせる。
しかし、苦しみや悲しみを共有するのは難しい。
難しいどころか、出来ないといった方がいいのかもしれない。
痛みを想像することは出来る、けれど、苦しみや哀しみに同化することは出来ない。
時にはそれが自分の身に起きたことではないことに安堵し、
その気持ちに気づき、負い目を感じ、罪悪感を持ってしまう。
慰めや励ましの言葉を口にしようとすると、
その空しい陳腐な響きに気づき、黙り込んでしまう。
その沈黙の中で幾つもの夜が明けてゆく。
浜田省吾
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