おかげさまでやっと”ON THE ROAD"ツアーの行程を全うする事が出来ました。万歳!そして感謝!であります。
最初に浜田さんのツアーに参加させて頂いたのは、1993年("Ocean Avenue 7493")で、その時は舞台監督ではなく大道具として、しかも本来ツアースタッフとなる人間の、”トラ”としての参加でした。
当初は、ゲネプロとアタマ 3本のみという話だったのですが、その物量の多さ(奇しくもトラック6台で、今ツアーと同じ)と、舞台監督チームから1名リタイヤという事が有り、スケ ジュールが空いている所までは行く、という事になりました。何とは無しに12〜3本位は廻ったかな、と思っていたのですが、チェックしてみたら29本も参加していました。この29本の途中で、当時も親分の平川さんに、「ん、次のスケジュールは○○○○でしょ、良いよ行かなくて。○○もウチ(ワンポイント) の仕事だし。オレ社長だし。最後までつきあってよ。何?、浜さんのツアー嫌なの!?」とオドされた事もありました。結局、先に決まっていた○○さん現場 (Gtは長田さん。怖かったのであまり話をした記憶無し)に行き、何ツアーか後に舞台監督を務める様になりました。あの時平川さんのオドしに屈していたら、今、舞台監督として”ON THE ROAD"ツアーに参加する事はきっと無かったでしょう。
で、次は2001年のアリーナツアー("THE SHOGO MUST GO ON")。留守電に招集の令が入っていたのは、初日、幕張メッセのバラしの最中、深夜2時の事でした。スケジュールもまあまあ空いていたので、2ヶ所目の さいたまスーパーアリーナからの、途中参加となりました。軽く打ち合わせだけして、仕込み日の朝、現場に行ったら、某現地業者が部材を忘れてトラスが組め ないとの事。待つのが嫌な、日本一の宴会進行トランポ・ビッグ佐藤の号令の元、とりあえずツアー物をトラックから下ろし始めると・・・、アリーナ一面、舞 台の部材のみで埋まってしまいました。舞台の完成形も、仕込み手順も判らなかったので、唖然としたことを憶えています。仕事を受けた事を一瞬悔やんだ、 38才の誕生日でした。また、途中参加の他に、どうしてもスケジュールの都合が付かないところも何カ所かありました。
かようなわけで、ツアー全行程皆勤出来たのは、05-07の今ツアーが初めてなのです。
とても楽しく、有意義なツアーでした。大きな事故もなく全う出来た事、スタッフのみなさんに感謝します。
サイコーのスタッフにサイコーの仕事をさせてくれるサイコーのミュージシャンに感謝します。
そしてツアースタッフである事を誇りに出来る事を、浜田さんに感謝します。
ありがとうございます。
お疲れさまでした。
舞台監督・岩浅 久

長崎ブリックホールのリハーサル前の岩ちゃん。

6月の青森市文化会館で浜田とツーショット。

10月の大阪フェスティバルホールの本番直前の楽屋前で・・・。
岩浅くんとの最初の出会いは93年のツアーでしたが、その時は舞台監督ではなくて、大道具としての参加でした。
それから何度か舞台監督のサポートとしてツアーを共にしたのですが、本当の意味で舞台の責任者としてツアーを共にしたのは2005年のアリーナツアーからです。
通常であれば、アリーナクラスのツアーだと舞台監督は3人から4人居るのが普通なのですが、2005年のアリーナツアーでは彼一人で最後までツアーを務め上げました。トレーラー3台と11t車15台のツアーですよっ。ス・ス・スゴイ!!
「中途半端な助手が就くんであれば、俺一人で回ります」と・・・。さすがに百戦錬磨のツアースタッフも唖然!。「出来っこないよ〜ッ!」とツアーに入る前は言っていたスタッフもツアーが進むにつれ、信頼と尊敬を勝ち取ったのでした。
今回のホールツアーも彼が居なかったら纏まらなかったと思います。
彼はシャイであまり表に出たがらない性格なのですが、男の中の男なのです。
そういう意味ではON THE ROADの歴史は浅いのですが、ツアースタッフからもメンバーからも、もちろん浜田本人からも絶大な信頼を得ています。もちろん僕からも・・・。
彼とはON THE ROADが続く限り一緒に苦楽を共にしたいと思っています。
ありがとう!そして、心から感謝しています。
プロデューサー 岩熊